毎日暑い日が続き、冷たいものが欲しくなることばかりです。この時期になると広島の原爆記念日の話を聞くことが多くなるのですが、中国新聞に「8.8の記憶 福山空襲を歩く」というコラムが載っていました。福山に住んでいながらも、福山空襲ということに余り関心を持つこともなく、ただの出来事としかとらえていなかったのですが少し考えさせられました。そのことがあり、先日休みの夕食のとき父親が福山空襲のことを話していたので少し書きます。

 私の自宅の近くには昔練兵場があり、そこへB−29が焼夷弾を落とし、みんなで箕島(福山支店の西)へ布団をかぶり逃げたとか、幸いけがもなく助かったと言っていましたが焼け跡とかには焼夷弾の不発したものがあり油が不足していたときなので素手で真空管を抜いて中の油をとったとか。今では考えられない話ですが。その福山空襲で当社の販売先の太陽新聞に福山市が平和学習教材で”福山大空襲の実相”というのを作ったとの記事をみつけ生田君に市役所訪問時にもらってきてもらいました。その中に詳しく載っていました。

7月31日夜 B−29一機が6万枚の空襲ビラを散布
8月8日22時25分 91機のB−29が飛来し約1時間に渡り556トンの焼夷弾を投下した。

とのこと。犠牲者354名、重軽傷者864名、被災人口47326名(当時の市民の81%)。 これら記事の載ったパンフレットは福山市の学校などに”このいのち みんなのいのち”として配られたとのこと………。

 父親が、「今の時代は戦争もなくものがいつでも手に入る時代。今時の若い人たちに空襲の頃を経験させれば悲惨な事件もないのに。」と言っていました。そういう経験は出来ないことですけど、事や物を大切にすることを今からでも出来ればと思います。




−友滝 亨−


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