「年の瀬雑感」

 早いもので今年もあと20日あまりとなりました。

当社も昭和23年創業以来68年が経ちました。

 世の中の変化もめまぐるしく、紙業界も栄枯盛衰の激しい状況がここ数年つづいております。幸いにも当社はお客様、社員に恵まれ順調な経営が継続しております。

 少し会社の経歴に触れてみます。初代 創業者 小島喜太郎が沼隈郡沼隈町下山南で農業を営みながら,製紙工場に製紙原料の空俵、いぐさ(山南はイグサの産地)(ちり紙の枚数区分に不良品のイグサ使用)マオラン等を納入していました。戦争から復員し、尾道市天満町に転居してこの商売を続けました。その頃、知り合いの印刷会社さんから、製紙工場に原料を納入しているので、紙を買ってきてもらえないかとの依頼があり購入しましたが、数量が多くて購入した紙が残ったので紙の販売を始めました。当初はコクヨの文具も扱っておりましたが紙の商いが軌道にのり忙しくなったので親しい近所の人に権利を譲っております。今思えば少し残念な気もします。

 その後、尾道市天満町11−15に移転しました。倉庫の裏には尾道鉄道(今は廃線)の西尾道駅があり電車の車庫もあったのでお願いし、倉庫の中まで国鉄の引込線を入れてもらったところ作業効率が上がるようになり、おかげで荷受が随分楽になりました。隣には東洋繊維尾道工場があり朝5時から22時までの操業で女子寮もあり山村から大勢の人が働きに来ておられ終日にぎわっていたのを覚えています。当時貨車で入らない品は船で運ばれ、中浜(今の市役所の隣)の亀田海運に板〆の荷姿で入ってきてそれを引き取っていました。

 営業の出張も各駅の近くに自転車を預けておき、それで営業活動をしていました。里庄から寄島までも自転車をこいで営業活動していたものです。

 昭和39年に有限会社から株式会社に変更し、昭和43年引野に福山支店開設、昭和48年尾道ベイタウンに移転、昭和55年尾道南倉庫新築、昭和57年葵紙業を引き継ぎアオイ洋紙設立、平成3年福山支店を曙に新築移転、平成15年広島のアオイ洋紙と合併、平成18年兜沍エ商店と合併し、平成24年に広島本店は現在の地に移転しました。

 父 喜太郎は陸軍二等兵として戦地に行っていました。喜太郎の著書の「死線を越えて」の中に「兵は倒れ怒涛甲板を越す 軍船は海中を潜航するがごとし 36の生涯西海に果てるか 我亡後の妻子如何にせんや」と読んでおりますが、今の平和な世の中に安心していると思います。平成4年5月死去し、来年が没後25年になります。今の盛況を、にこにこしながら見守ってくれていると思います。

 喜太郎の信条は「一途に一本道 一途に一つこと」「今日から一歩 まず一歩」「山より大きい猪は出ない」「朝の来ない夜は無い」こんなことを色々な場面で心に言い聞かせながら商売を進めてきたのではないかと思います。

 紙の商いも年々シュリンクしてきていますが、何か新しいことをみんなで見つけて行けばきっと衰退はありません。

 本気でやれば何か見つかるはずです。全員が協力し知恵をしぼって、持ち場持ち場で新しい商い、今の仕事の改善点等見つけてください。明日の発展のために頑張ろうではありませんか。よろしくお願いします。

 1年間ご苦労様でした。酉年は商売繁盛の年と言われ「運気もお客も取り(酉)込める」とありました。本当にそうあって欲しいものですが、努力なくしては取り込めません。全員が協力し、良い年になるよう頑張っていただきたいと思います。 来る年2017年が良い年でありますよう祈念いたします。

アオイ福原(株)
取締役会長 小島 哲

戻る